お位牌について

目次

お位牌とは何でしょう

私たちが手を合わせて祈る、お位牌とは何でしょう。

玉棚の奥なつかしや親の顔」去来

松尾芭蕉のお弟子さん「去来」のこの俳句が、私たち日本人が持つ、故人となった人への思いを良く表していて、その思いの場がお位牌であり、お仏壇になったのでははいでしょうか。

位牌の起源   

私たちが手を合わせて祈る、お位牌って何でしょう。

お位牌の成立ちを通じて考えてみたいと思います。

“位牌は、儒教の儀礼からはじまり、儒教の神主が中国宋代の禅宗を通して鎌倉時代の日本で受容され、やがて江戸時代に庶民のあいだで普及したのが現在の位牌の起源と考えられるといいます。”

お位牌の起源を求めて、儒教・中国仏教・日本仏教から考えることでその答えがみえると思います。それぞれの歴史をたどってみたいと思います。

(1)儒教から考える  

(2)中国仏教から考える

(3)日本の仏教から考える

(4)位牌の成立について考える  

お位牌を儒教から考える

儒教とは中国・春秋時代紀元前6世紀から5世紀の思想家「孔子(こうし)」の唱えた政治道徳、倫理、祭祀などを体系化したものです。古代中国には先祖崇拝があり、儒教は中国固有の先祖崇拝がベースにあるともいわれます。

前漢の時代に国教となり、中国仏教、道教とともに中国における基本的な思想であり、儒教は仏教とともに、東アジア・日本に大きな影響を与えています。

古代の儒教そのものは、天子・皇帝の天子の直轄地における臣下、官職にある士大夫(したいふ)を対象にしたものでしたが、東アジアにおける冠婚葬祭の基本は古代の儒教によって構築されたといわれています。日本には4~5世紀頃に伝来し、聖徳太子の十七条の憲法制定、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)を中心とする大化改新(たいかのかいしん)、律令制の確立などに大きな影響を与えています。

※道教とは、古代中国の民間信仰を基盤とした中国固有の宗教のことです。

※大化改新とは、中大兄皇子(のちの天智天皇)・有力な豪族だった中臣(藤原)鎌足(なかとみのかまたり)が中心となり、やはり大和朝廷の有力豪族だった蘇我氏を倒して、豪族・皇族支配の政治から中央集権的政治への変革を求めたものです。公地公民・地方行政制度の整備など、大化改新により律令制(りつりょうせい)の基礎が確立されています。

 ※律令制とは、刑法についての規定の「律(りつ)」と一般行政・現在の行政法・民法などにあたる規定の「令(りょう)」を基本とする古代日本の中央集権的政治体制のことです。7世紀後半から8世紀・奈良時代後期から平安時代にかけて、中国・唐の法体系を手本として制定されています。

儒教の経典「儀礼(ぎらい)」「礼記(らいき)」のなかに

前漢の時代(紀元前206年 – 8年)に天子・諸侯・士大夫(したいふ)を対象として編まれた三礼(さんらい)と呼ばれる儒教の経典「儀礼(ぎらい)」、「礼記(らいき)」、「周礼(しゅうらい)」のうち、「儀礼」「礼記」は主に葬送儀礼についての記述があり、葬送の際に故人の霊魂を依りつかせる依代(よりしろ)として、「銘(めい)」「重(ちょう)」「帛(はく)」などと呼ばれるものがつくられ、「銘(めい)」は帛(きぬ)を用いた旗のようなもので、故人の名を記し、故人を知らしめ、故人を哀惜するがゆえに衷心よりこれをととのえる。」と記録にあるといいます。葬儀が終わると、故人の霊魂をやすらかにする虞祭(ぐさい)が行われ、神霊となった故人の霊魂を迎えるために「主(しゅ)」が作られ、「銘」「重」「帛」は、葬儀が終わると土に埋められています。「主」の形状は漢以前については記録がなく、漢の時代は「木主(もくしゅ)」と呼ばれる木製のもので、立方体の形をしています。宋の時代になると「主」が庶民にも普及しています。それ以前は多くの儀式は官位にあるものだけのものであり、庶民には全く関係のないものでした。

※「 儀礼」とは、中国の儒教教典の一つで、中国古代の冠婚葬祭など支配者階級の礼儀作法について具体的に書かれた経典です。

※「礼記」とは、中国古代の礼(下記の「中国の礼」参照して下さい)についての規範を記録したもので、特に葬礼についての記述が多くあります。

※「周礼」とは、行政組織についての記録で、宮廷や地方行政、軍事、外交や司法など6部それぞれの職務、人員などを詳細に記したものです。

※「中国の礼(れい)」とは、日常の礼儀作法、人としての通過儀礼、冠婚葬祭、職場、学校、地域コミュニティ、家庭等での作法など、その場であるべき行動を規定化したものとされています。又円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範の総称ともされています。

中国の歴史書「史記」

中国・前漢の時代に司馬遷[しばせん]が書いた中国の歴史書に『史記(しき)』があります。「史記」は紀元前91年頃完成とされ、中国正統の歴史書として、歴代の王朝の人物を主体に全部で130巻、上古の黄帝から前漢の武帝までの

約2千数百年にわたる歴史が書かれています。歴史書としてではなく、文学作品としてもすぐれているとされます。「史記」は「背水の陣(はいすいのじん)」「四面楚歌(しめんそか)」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」など多くの古事熟語を残しています。

『史記』に「主(しゅ)」の記述が

『史記』「周本記」に、紀元前11世紀頃、周(しゅう)と殷(いん)の戦いの記述があります。周の武王は殷を討つため出征の際、周王朝を建国した父・文王の墓前で必勝を祈願して「主(しゅ)」をこしらえ、主力の車に載せて進軍したといいます。これは先君の命を奉じた戦いであり、私事の戦いではないと示したものといわれています。この「主」は、神霊の宿るところ、みたましろとされます。この時代(紀元前11世紀頃)に、「主」のようなものが作られていたという言い伝えが史記の時代(喜元前91年頃)にあり、これが『史記』に記述されたと考えられています。

漫画の鉄人・横山光輝さんの描く史記

「史記の」余談になりますが、「司馬遷」の『史記』については、『鉄人28号』で知られる漫画の達人と呼ばれた、「横山光輝」さんの中国歴史シリーズがダイナミックに、劇画再現してくれています。「史記」の作者「司馬遷」の生涯を描いた「史記」や紀元前11世紀頃に周の文王が殷を破り、周王朝を築くまでを描いた「殷周伝説」、秦の始皇帝率いる秦王朝(紀元前221年~紀元前206年)が倒れた後に、次の時代の覇権をめぐって争った項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)を描く「項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)」は、横山漫画で私たちを古代中国の時代にタイムスリップさせてくれ、大活躍の英雄豪傑の姿がよみがえります。

司馬遼太郎さんの『項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)』

『史記』を原典とする『項羽と劉邦』については、私が最も愛読する作家、司馬遼太郎さんの小説『項羽と劉邦』もあります。勇敢で戦に強く将軍家出身の項羽と、田舎町の民間出身で戦には弱いけれど人間味あふれた劉邦とが戦い、長い戦いの末劉邦が漢王朝を開くまでが描かれています。難しい古代中国の当時の様子が司馬さん流に易しく書かれていて、現代小説のように読めてとても面白いです。

”文芸評論家の矢沢永一さんは同書の解説で“司馬遼太郎さんの小説『項羽と劉邦』は人望とは、なにかをめぐる明晰(めいせき)な考察の集大成なのである”と結んでいます。司馬遼太郎さんの小説『項羽と劉邦』は、学生さん・若いビジネスマン・組織のなかで働く方に特におすすめです。できれば上巻・中巻・下巻のなかで下巻にあるあとがき・解説も併せてご覧ください。

三国志もあわせて!

有名な『三国志』は、司馬遷の『史記』以後、紀元3世紀から4世紀にかけて書かれた歴史書です。やはり横山光輝さんの中国歴史シリーズにこの『三国志』があります。超面白く、漢王朝が揺らいだ2世紀から3世紀に「魏(ぎ)の君主・曹操(そうそう)、呉(ご)の君主・孫権(そんけん)、蜀(しょく)の君主・劉備(りゅーび)」の三国による対立、戦いの壮大な物語です。よく知られる軍師諸葛孔明(しょかつ こうめい)や豪傑・関羽(かんう)や張飛(ちょうひ)の大活躍を描く『三国志』は、中国の長い歴史のなかでも型破りで、ダイナミックな横山漫画は一度読み始めたらやめられません。

横山光輝さんの中国歴史シリーズは『史記』11巻、『項羽と劉邦』横山光輝さんのパワーとエネルギー、漫画に懸ける情熱には感服する12巻『三国志』60巻、上記以外にも『水滸伝』6巻など驚くほどの冊数であり、どの物語も超長く、資料を調べるだけでも大変だったと考えますが、ばかりです。私は名前を覚えるだけでも大変です。でも私的にはやっぱり横山光輝さんというと「鉄人28号」です。いま思えば、「鉄人28号」は、漫画の神様・手塚治虫さんの「鉄腕アトム」とともに、AI人工知能やロボット時代の先駆けだったのかもしれません? 

「レッドクリフ・赤壁の戦い」

劉備や諸葛孔明の活躍する三国志というと有名な「赤壁の戦い」を描いたジョン・ウー監督の映画『レッドクリフ』を思い出します。大型画面を軍船・ジャンクで埋め尽くしたクライマックスの赤壁の戦い、諸葛孔明が知恵を絞り、豪傑・関羽や張飛による超人的な活躍、最初から最後までのアクションシーンは圧巻です。映画って凄いなと思わせてくれる私の忘れられない映画の一つで、必見です。機会がありましたらどうぞご覧ください。

『史記』の著者「司馬遷」はとにかくすごい!

『史記』を著作編集した「司馬遷」はとにかくすごい、の一言です。

「殷周伝説(殷と周の戦い)」にある「主(しゅ)」にまつわる記述、「項羽と劉邦」など全て『史記』に書かれているそうです。ファイリングシステムもITも検索サイトもクラウドもない紀元前91年に『史記』を書き上げたという事実に唯々驚くばかりです。司馬遼太郎さんは「項羽と劉邦」のあとがきで司馬遷について“司馬遷は宋代以後の学者よりもはるかにこんにち的な感覚を持ち、二十世紀に突如出てきても違和感なく暮らせるほどに物や人の姿を平明に見ることができた。”と書いています。司馬遷は、現代に生きていたらどんな人だったのでしょうか。映画監督のスピルバーグさんやAppleのスティーブ・ジョブズさんのような人だったのでしょうか。

冠婚葬祭・通過儀礼の作法が庶民に浸透

11世紀後半中国・南宋時代の思想家「朱熹(しゅき)」が新しい儒教・朱子学を大成させています。「朱熹」による朱子学は超難しくて私には理解できませんが、哲学・歴史・政治などを理論的に哲学体系として整合し、実践的倫理を説き、東アジア圏、日本・朝鮮に大きな影響を与えています。中国では元(げん)の時代以後,朝鮮でも李朝以降,国家教学となり,日本以上に尊重されています。日本には鎌倉時代に伝わり、江戸時代に江戸幕府の官学となり、封建的支配体制の倫理観として大きく影響しています。室町時代の五山文学など文化面でも大きく寄与しています。朱子学は、士大夫(したいふ)だけでなく庶民にも儀礼の実践を説き、新しい規範によって、今日に続く冠婚葬祭・通過儀礼の作法が庶民にも深く浸透したといわれています。

日本の位牌の原形

宋時代の記録に「神版」があります。「主」が天子に用いられたのに対し、卿大夫士(けいたいふし)には「神版(しんぱん)」があったといいます。名称はほかに祠版(しばん)・位版(いばん)・位板(いばん)・祭板(さいばん)・主牌(しゅはい)などがあり、「主」と同じく祖先の霊魂が依りつくものとされたといいます。宋の時代より300年位前の唐の時代『通典(つてん))』にも「今の代に祠版木あり」「板に名号を書する」「主に題するの意なり」との記述があり、「神版(しんぱん)」が「主」の代用とされていたことになります。

“日本の位牌の原形は主と考えられるが、こまかく言えば主から別れ出た神版がより近いのではなかろうか。位板や主牌という別称、薄い板という形状、「某之神坐」と記す文字など、位牌との類似に注意したい”

これは、「東洋大学教授/菊池章太 著『位牌の成立‐儒教儀礼から仏教民族へ』 東洋大学出版会 2018」にある一節です。また同書には次のようにあります。

“北宋の張載の『経学理窟』に、祭堂の後ろに一室をつくり、すべて都(すべ)て位板を蔵す」とある。全ての位板とあるから、先祖各位の分を作成して納めておいたのか。つづいて「位板は正位と配位と宣しく差有るべし」とある。夫婦で別々に作成したのであろう。”

約1,000年前の中国・北宋の時代に、現在の位牌に近いものがつくられ、ご夫婦共につくられていたのですね。故人・亡き人を思う心って、すごいですね。この頃の記述にあるものは現在の位牌とはカタチ等は異なるとしても、私たち、人として、故人・亡き人を大切に思う心は昔も今も変わりはないのですね。

(2)中国仏教から考える

 シルクロードを通って

紀元前5世紀頃にインドで誕生した仏教は、ガンダーラ(現在のパキスタンやアフガニスタン)からカラコルム山脈を越え、シルクロードを通って、1世紀の後漢時代に中国に伝来したといいます。多くの経典が中国語に翻訳され、中国古来の思想・儒教や道教の教えを取り入れながら仏教は中国に広まっていきます。

「大乗仏教」と「小乗仏教」

釈迦死後約数百年後に仏教教団が「小乗仏教」と「大乗仏教」に別れましたが

考えが大きく異なりす。「小乗仏教」は正しくは「上座部仏教(じょうざぶ ぶっきょう)」といい、厳格な戒律を守り厳しい修行を重ねた、出家者だけが救われるという考え方の仏教です。上座部仏教は「南方仏教」と言われ、タイ、カンボジア、ミャンマー、スリランカなど、アジア諸国の中でも南の国々に主に伝わっています。 「大乗仏教」は、仏陀は「生けるもの全てを救う」ために、苦しい修行を行ったと考え、「もっと大勢の人を救うことが、仏教の真の目的ではないのか」と問いかけ、広く大衆の救済を目指したのが、「大乗仏教」です。「大乗仏教」はチベット,中国,日本など北方へ伝わり今日にいたっています。「大乗」とは、大勢の人間を悟りの彼岸に渡らせることができる「大きな乗り物」を意味しています。

※出家者とは、家を出て仏門に入る人。家庭生活を捨て,世俗的な執着を離れて,もっぱら仏道を修行する人をいいます。

※在家とは、出家者の反対に在家があります。出家に対する在俗の人。在家とは出家せずに、普通の生活をしながら仏教に帰依する人をいいます。

中国仏教の開花

漢が滅亡するとともに従来の儒教は力を失い、老子(紀元前6世紀頃の人)荘子(紀元前4世紀頃の人)の説いた「無為自然(むいしぜん)」 (人間の理想は人為を退けた自然の姿にあるとして、人為的な儒教を否定し、無為自然・ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることをよしとする考え方・思想で、のちに老子の教え子が、道教に発展した。)思想が重視されてきましたが、仏教もこの無為自然の考えに近いと解釈することで、インドで生まれた仏教が中国で広まる土壌が育まれたとされています。インドとの交流により、哲学的な仏教が盛んになっていましたが、401年に「鳩摩羅什(くま らじゅう)」という名僧が西域から招かれました。鳩摩羅什さんは大乗経典の「法華経」など大変な数の経典を翻訳していますが、名翻訳とされ読みやすく、中国仏教の礎にもなったとされています。6世紀初めにインドより、海路で中国に入った達磨(だるま)が禅を伝え、のちの禅宗の開祖となったといわれます。禅宗は中国独自の宗派として、もっとも長く栄えることになります。日本には鎌倉時代に栄西が臨済宗を、道元が曹洞宗を伝えています。4~6世紀の南北朝時代には、仏教を奨励した皇帝の保護もあり貴族や民衆にも普及して、多くの寺院が建設されています。

中国仏教の最盛期・6~9世紀の隋・唐時代

西遊記・三蔵法師が孫悟空と共に

唐の時代に原典による研究を求めて、16年間インドに旅した玄奘(げんじょう)[602~664年]は、多くの経典を原典で持ち帰り翻訳しています。サンスクリット(古代インドの言語、梵語と言われる)原典に忠実なその訳はそれまでの旧訳 (くやく)に対して新訳(しんやく)といわれ、その後の仏教の教えの基本になったとされています。玄奘と弟子による著作、インドへの旅の見聞録『大唐西域記(だいとうさいいきき)』は、7世紀前半のインドや西域の地理、文化、宗教などを知るうえで貴重な史料となっています。

映画やTVでおなじみの西遊記は、明の時代に書かれた長編小説で、中国4大奇書のひとつとして知られています。唐の時代に原典による経典を求めてインドに旅した玄奘(げんじょう)がモデルとされ、玄奘(げんじょう)・三蔵法師がインドへ行き、中国に仏教の経典をもたらした史実を軸に、そのお供の孫悟空(そんごくう)・猪八戒(ちょはつかい)・沙悟浄(さごじょう)が妖怪どもを退治して玄奘を助け、特に孫悟空の活躍ぶりは面白く、日本でも江戸時代に「通俗西遊記」が発行されて人気を博したそうです。

中国仏教の最盛期へ

多くの仏典がインドから中国にもたらされましたが、経典がインドでの成立順に中国に伝わったのではないことやその時々の経典が整合性をもって翻訳されたのではないため、異なる考え方、教えの整合性をどのようにとるかが大きな問題になっていました。その問題解決のため、それぞれの信じる経典を最も大事なもの・最高位のものとして、他の仏典を相対的に位置づける教相判釈(きょうそうはんじゃく)と言われる考え方で、多くの仏典・思想に体系化・整合性をもたらしたとされます。この後、多くのご宗派学派が各々の信じる教相判釈により中国仏教が確立され、多様なご宗派・仏教文化が隆盛を極めています。天台宗や浄土教、華厳宗、密教、禅宗などが成立して、6~9世紀の隋・唐時代は中国仏教の最盛期と位置付けられています。この時代の仏教は日本、朝鮮などに大きな影響を与えています。       

北宋・南宋の時代

907年に唐が滅び、5代10国時代という分裂の時代を経て、960年に北宋が成立して1234年に南宋が滅ぶまでの宋時代には、天台宗や華厳宗名など多くの仏教ご宗派が復興しています。南宋の時代には、官僚などの新しい支配者層、士大夫などの支持を得た禅宗が特に発展して、禅宗は国を代表する仏教になっています。禅宗の臨済宗・曹同宗が盛んになり、鎌倉時代に日本にも伝えられています。また唐の時代に開発されていた木版印刷の技術の進歩により大蔵経(だいぞうきょう)の編纂印刷ができるようになり、庶民一般の人たちに仏教が広まっています。                                  ※大蔵経(だいぞうきょう)とは、中国での仏教経典を総集したものの名称です。

位牌は禅宗の葬送儀礼から

12世紀の南宋の時代は、中国社会の大きな転換期にあり、儒学の思想家「朱熹(しゅき)」が新しい儒教「朱子学」を説き、その著書「家礼」によって士大夫だけでなく庶民にも儒教儀礼をひろめています。この時代の仏教・禅宗も転換期を迎え、儒教礼儀を取り込みながら時代に適応した禅宗独自の新しい葬礼儀礼を整備しています。現在行われている仏教によるご葬儀の基礎を築いたのが禅宗で、位牌もこの葬礼儀礼から始まっています。禅宗の葬儀儀礼・位牌については、「(4)位牌の成立」の項で、詳しく考えてみたいと思います。

元・明・清など13世紀以降

国家統制などにより、仏教は衰退していきますが、より実践的な側面を高めながら、中国仏教として人々の生活に密着して現在も庶民の日々の暮らしに生き続けているといわれています。                 

(3)日本仏教から考える

日本への仏教の伝来

“日本仏教とは日本に展開した仏教を総称する言葉である。どの地域に伝わった宗教も、その地域の文化的な影響を受けて、変容を余儀なくされ、大いに独自なものとして展開した。たとえば東アジア世界の中心に位置する中国では、その地に存在した儒教、道教、および医学思想などの影響を受けて、インドの仏教とは異なった部分を持つに至った。” 

“日本の仏教も同様に、古代の日本に存在した信仰を受けて変質して展開した。その代表的なものが山に対する信仰や、また日本の神々に対する信仰であろう。”

“このように仏教は、伝えられて以降、すぐに日本的な信仰と、折り合いを付けながら展開していった」。”

これは『辞典 日本の仏教 箕輪顕量 編 吉川弘文館』の中の一節です。この文章は日本の仏教の成立ちを考えるとき、また文化や芸術、音楽、技術テクノロジー、スポーツ等の全ての事象の受容と展開を考えるときに最も基本とすべき大事なことと思います。

仏教の本格的な普及へ

飛鳥時代

仏教伝来から聖徳太子の時代までは、朝廷が飛鳥(あすか)に置かれていましたので、飛鳥時代(6世紀末~7世紀)と呼ばれています。日本に仏教が朝鮮から正式に伝えられたのは、6世紀の前半と考えられています。中国では南北朝に分かれ、朝鮮では高句麗・百済・新羅の三国に分かれていた時代にあたります。  初期の仏教は、日本に存在した神々への信仰と同じものとして受容されたと考えられています。伝来まえから古来の神々が存在し信仰を受けてきましたが、仏教が伝えられた時に、仏教を受け入れようとする派と反対する派に別れ、豪族間の権力争いも加わり戦いが激しくなりました。受け入れようとする派の蘇我(そが)氏の勝利により、仏教の本格的な普及が始まります。ただこの時代の仏教は蘇我氏などの氏族・豪族を中心とするもでした。6世紀末頃、日本最初の本格的な寺院である法興寺(ほうこうじ)(飛鳥寺ともよばれます)が蘇我氏の祖先をまつり、守護を願う氏寺(うじでら)として建立されていまが、他の氏族・豪族も氏寺として寺院を建てています。これは、祖先をまつり、守護を願う古来の先祖崇拝の影響もあるとされています。法興寺は現在の奈良県明日香村(あすかむら)に一部が現存しています。

聖徳太子 法隆寺など7つの寺院を建立

7世紀前半、推古(すいこ)天皇、聖徳太は「十七条の憲法」の制定、遣隋使を派遣して大陸文化の導入に努めるなど内政整備,中央集権国家体制つくりを目指し、仏教を保護し、法隆寺・四天王寺など7つの寺院を建立しています。世界最古の木造建築とされる法隆寺は、聖徳太子により建立されたとされ、金堂、五重塔、玉虫厨子など数多くの著名な国宝を現存しています。1993年に日本初の世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。(同時に姫路城、白神山地、屋久島が世界遺産として登録されています)

インターナショナルな文化?

聖徳太子は政治・文化の中心となり、深い仏教への信仰に裏付けられた仏教文化を開花させ、朝鮮を経由して六朝時代(りくちょうじだい)の中国文化・西域(さいいき)文化の影響も受けていて、大変にインターナショナルな文化だったとされています。

※六朝時代とは、漢が滅亡して隋が建国されるまでの3世紀から6世紀の時代のことです。

西域(さいいき)とは、中国の西の地域・東トルキスタン地方を指します。

柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

余談ですが、柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句は、正岡子規の有名な句ですね。この句は子規が法隆寺を訪れた際に、茶店で奈良の名産「御所柿」を茶店で食べて詠んだ句とされています。正岡子規は明治時代の俳人・歌人で、俳句・短歌に近代文学としてのポジションを確立したとされ、「実物,実景をありのままに写すという写生文」の必要性を説いています。柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を見ると、真っ青な秋の空と濃い紅色に実った柿、法隆寺の国宝五重塔が目に浮かび、まさに写生文ですね。  

子規については、私の一番好きな愛読書「『坂の上の雲』司馬遼太郎さん著 文藝春秋 1069」で「秋山好古(あきやまよしふる)・真之(さねゆき)」兄弟とともに「怖がりやの升(のぼる)さん・子規の幼名」が主人公になっています。                                   

NHKテレビ『坂の上の雲』の放映では、「香川照之」さんが子規を演じています。今でも『坂の上の雲』の香川照之さんの子規が目に浮かび、「久石 譲」さん作曲のサウンドトラックが聞こえてきます。「久石 譲(ひさいし じょう)」さんのテーマミュージックは本当にいいですね。

法隆寺の世界遺産指定は、寂しがりやで賑やかなことが大好きだったという升(のぼる)さん・子規も大いに喜んでいると思います。

※[久石 譲]さんは、日本を代表する作曲家,編曲家,ピアニスト,指揮者です。風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」などの「スタジオジプリの宮崎 駿」監督作品や映画「おくり人」などの音楽監督として知られ、アニー賞最優秀音楽賞,,ロサンゼルス映画批評家協会最優秀音楽賞,JASRAC賞金賞など数多くの賞を受賞しています。 

「柿の日」                               「柿の日」に10月26日が制定されています。これは正岡子規が柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を、明治28年10月26日からの奈良旅行で詠んだからとされています。ちなみに奈良県の柿生産量は全国2位で、1位は和歌山県・3位が福岡県となっています。(平成28年・27年・26年調べ)奈良県は柿の名産地でもあるのですね。

奈良時代

奈良時代とは、都が平城京(奈良)から平安京に移るまでの期間,710年から794年までの 85年間をいいます。古代国家の最盛期にあたり、唐文化の移入によって諸文化が繁栄し、文化史上では、天平時代ともいいます。奈良時代には唐に入った入唐僧や唐から来た渡来僧の努力により、経典が多く入ってきて、教義の議論・研究が盛んに行われています。奈良時代には、仏教も国家政策の一環として進められ、「国家仏教」の時代です。この時代の仏教は、国家を鎮護する目的で国家を中心に寺院が建てられ国の安寧と平和を願って、東大寺など全国に国分寺を建立しています。東大寺には有名な大仏があります。この時代に興福寺や唐招提寺(とうしょうだいじ)が建立されています。

仏教は、国家・支配するものの「所有」

奈良時代には、仏教も国家政策の一環として進められ、「国家仏教」の時代です。全国に国分寺が建立され、僧は国家に所属し、所属寺院の他に道場を建てたり、庶民を集めて教科することなどは許されなかったそうです。仏教は、国家・支配するものの「所有」であって、仏教は庶民のものではではなかったのです。これは奈良時代から平安時代になっても本質は変わらなかったたようです。

社会秩序の乱れ

当時の日本には、正式な受戒の儀式が伝わっていませんでしたので、資格を持たない者が私的に出家したり(私度僧といわれます)、税や労役から逃れるために僧となる者が続出するなど、社会秩序の乱れのひとつになっていたとされます。その為もあり、正式な授戒のできる僧侶を唐から招く必要に迫られていました。この様な社会情勢の中、正式な授戒のできる僧侶を唐から招くために、2名の僧が唐に渡りました。その熱い思いに答えてくれたのが鑑真(がんじん)でした。鑑真さんの来日により、日本でも受戒が可能となり、東大寺とその他の二カ所に戒壇(かいだん)が設置されています。

※受戒(じゅかい)とは、仏の教えに帰依するその証として,定められた戒を守ることを誓うことです。僧侶になるには、戒律(仏教修行僧が守らなければならない規律のことで、仏のいましめを自発的に守ろうとする心の働きをいう戒と、僧に対する他律的な規範をいう律を合わせた言葉です。)を受けてそれを遵守しなければなりません。

渡航の挫折5回、12年の歳月を経て来日に、その間に失明も

唐招提寺(とうしょうだいじ)は鑑真和上(がんじんわじょう)によって開かれています。 鑑真さんは中国・唐の時代、信望の厚い高僧で、唐では40,000人以上の受戒を授けたといわれます。中国へ渡った2名の僧侶、栄叡(えいえい)・普照(ふしょう)の来日への強い要請に応じて、お弟子さんとともに来日しています。栄叡さん・普照さんは、日本に招くのにふさわしい僧侶さんとして、鑑真さんを探し当てるまでに9年。鑑真さんが日本への来航を決意してから、風浪などの災により、海南島(南シナ海北部の島)に流されるなど5度挫折の後,6度目の754年に鹿児島県に渡来しています。 当時の海路、陸上の旅は困難を極めたと思います。鹿児島県に漂着するまで12年。なんと長い歳月でしょう。渡航の途中で盲目にもなっています。ただただ驚くばかりです!当時の船で日本に渡ることはどんなに厳しいことだったでしょう!それも唐の国で信望が厚く、高い地位にいた名僧さんがです。鑑真さんの仏教に懸ける使命感とお人柄に感謝するばかりです。

最先端の技術の導入・味噌や砂糖も

鑑真さんは経典の翻訳、戒律の研鑽(けんさん)など日本仏教に大きな影響を残していますが、当時の最高建築技術者や彫師、漆職人などが多くの技術者が来日して、最先端の建築・彫刻・木工技術などを伝授しています。またやはり当時の医療技術や漢方薬の知識も授けて、日本の医療にも大きな貢献をしています。そのほか、味噌や砂糖などの調味料を初めて教えてくれたのも鑑真和上とされています。鑑真さんはこのように大きな功績を残して763年に76歳で逝去しています。

ミッション:インポッシブル

日本の人たちに受戒を授けられる唐の名僧を探しだして、日本に一緒に来てもらうことは、まさにミッション・インポッシブルだったと思います。不可能を可能にした栄叡さん・普照さんは映画「ミッション・インポッシブル」でのイーサン・ハント(主人公・トムクルーズの役名)だったのかもしれません。唐の国に入り、鑑真さんに巡り会うまでに9年。唐では大変な苦労の連続だったそうです。鑑真さんを日本に渡航させようとしたとして、捕らわれて牢獄入りを何度もしています。高い地位にいた鑑真さんに、日本渡航を決意させた栄叡(えいえい)さん・普照(ふしょう)さんはどんな人だったのでしょう。唐の国に入り、鑑真さんに巡り会うまでに9年。唐では大変な苦労の連続だったそうです。鑑真さんを日本に渡航させようとしたとして、捕らわれて牢獄入りを何度もしています。高い地位にいた鑑真さんに、日本渡航を決意させた栄叡(えいえい)さん・普照(ふしょう)さんはどんな人だったのでしょう。困難にくじけない気持ちの強さはどこからきているのでしょか。日本仏教の将来のため、発展途上にある日本の国を案じてだったのでしょうか。日本仏教への熱い使命感と一途なお人柄が鑑真さんを翻意させたのでしょうか。栄叡さんは日本への5回目渡航挫折の後、唐で客死しています。普照さんは鑑真さんと共に日本へ帰ることができ、東大寺で律を講じています。今から約1,250年以上前にこのような人たちがいたことに感謝して、人間って素晴らしいなと改めて思うばかりです。  余談ですが、映画「ミッション・インポッシブル6・フォールアウト」はアップテンポでスピード感溢れ、スタントマン無しで疾走するトム・クルーズのアクションシーンの連続です。最後はほろっとして、映画はいいなと思いながら映画館を後にできます。よろしかったら是非ご覧下さい。

無名の人たちが歴史をつくる

栄叡さん・普照さんは歴史のなかにはほとんど出てきません。詳しい歴史書のなかにあっても僅か2~3行の記述です。こういう名もない無い人たちが歴史をつくり、歴史を変えてきたのだとしみじみとかみしめています。

仏教は文化のオールラウンドプレーヤー                       

“7~8世紀の仏教は、大陸文化を綜合するものして積極的に導入されています。仏教は単に一つの宗教というにとどまらず、壮麗な寺院は最先端の建築・工芸の粋を尽くし、医学・治水などの科学技術から音楽などの娯楽にまでわたるすべてをカバーするオールラウンドの文化であった。”これは『岩波新書 日本宗教史』末木文美士著にあります文章です。当時の仏教は文化のオールラウンドプレーヤーだったのですね。仏教の歴史をみているとこのことが実感としてよく分かります。末木先生にはこの著書を通じて多くのことを教えていただきました。有難うございました。奈良時代の首都・平城京は唐の都長安をモデルとしてつくられ、仏教は多くの文化や学問、建築や仏像彫刻、絵画、木工、漆工芸などの多くの技術を運んでくれたオールラウンドプレーヤーであり、クルーズ船だったのかもしれません。多くの壮大な寺院は朝鮮や隋、唐から招いた職人さんの持つ最先端技術の導入となり、現在でも存在する法隆寺や東大寺、唐招提寺、興福寺などの寺院や仏像、仏画、漆器は日本の宝であり、国宝に指定されています。

平安時代8世紀末の平安京(京都市に都が置かれた)遷都から12世紀末の鎌倉幕府成立までの約400年が平安時代といいます。勢力が強くなった仏教の寺院や僧の政治介入を避けるため、朝廷が京都へ遷都したともいわれます。

伝教大師・最澄(さいちょう)、弘法大師・空海(くうかい)

平安時代は、新しい仏教の密教が中心となりました。平安時代初期に伝教大師・最澄(さいちょう)が比叡山に天台宗の密教(台密)を開いています。弘法大師・空海(くうかい)が真言宗の密教(東密)を高野山に開いています。最澄さん空海さんは共に遣唐使として唐に渡っています。

“南都六宗のように国家によって維持される国家仏教でなく、鎮護国家を標榜しながらも、国家の統制から自立できる力を養うようになってきた。都を外れた比叡山や高野山に本拠を求めたのもそのためである。それによって、これまでの教学と修業が別々であったのが、両者を有機的に組み合わせることができるようになった。”                               参考資料 「末木文美士『日本宗教史』岩波書店 2006」

私は何故、天台宗の根本中道・延暦寺が京都との県境にある滋賀県の比叡山の山中にあり、真言宗の金剛峯寺(こんごうぶじ)が和歌山県の高野山の厳しい山中に開かれたのか、よく理解できませんでしたが、同書により、何故あえて厳しい山の中に創建されたのか、その理由を知ることができました。有難うございました。                                 

※南都六宗とは、奈良時代の国家仏教で公認された六ご宗派「三論・法相(ほつそう)・成実(じようじつ)・俱舎(くしや)・律・華厳」のことです。平安以降に成立する諸派に比べて、信仰よりも学問的研究を重視したとされています。

念仏を唱えて極楽浄土へ

平安時代中頃から、阿弥陀仏を信じ,念仏を唱えて極楽浄土へゆくこと願う浄土教が広まりました。平安時代末期には、釈迦の滅後,年代がたつにつれて正しい教法が衰滅して、世の中が混乱するという末法思想の広まり、多くの戦乱や疫病や災害などが多発して社会不安が大きくなったことなどで、浄土思想・浄土教が貴族だけでなく、念仏の広まりもあり、一般庶民にも急速に広まっていきます。                          

源氏物語・光源氏最愛の女性「紫の上」の悲しみ

浄土思想は、日本文学の一つの頂点、紫式部の『源氏物語』「御法(みのり)の巻」を連想して、ついほろりとなってしまいます。光源氏最愛の女性「紫の上」は出家を強く望みながら源氏に許されぬまま、齢を重ね病で亡くなる、源氏物語を象徴する哀しい場面です。          

現代の私たちには理解できない、平安時代の人たちの仏教にすがる強い思いが「紫の上」や「源氏」の出家への願いになると考えますが、「紫の上」気持ちを察すると哀れでなりません。人たちにとって仏教は「紫の上」のように、また作者の「紫式部」にとっても、生きていくうえで、このうえない大切なものだったのだと思います。(私は源氏物語を全て読んだわけではありません。私には難しくて、一部をほんの少し見ただけです。)

平等院鳳凰堂

仏教の時代感、史観のひとつに末法思想がありますが、釈迦入滅後千年たった1,052年から末法の時代に入ったという考えが、平安時代後期から鎌倉時代にかけて、仏教界・貴族階層を中心に広まっています。律令による中央集権体制が崩れ始めたことも貴族層の厭世観を高めたとされています。                                    

末法思想の時代背景のなか、多くの貴族層がせめて来世で極楽浄土に行きたいという気持ちから、それをかなえようと阿弥陀如来堂を建立しています。                            

平等院鳳凰堂」は、最高権力者だった父・藤原道長の京都・宇治の別荘を寺院に改め、関白・藤原頼通(ふじわらのよりみち)が建立したものです。              

「平等院鳳凰堂」は、本当に美しいですね。約1,000年前に建てられているのがとても信じられません。                                     当時の人たちが水に浮かぶ「平等院鳳凰堂」を見たら何と思ったでしょう。極楽浄土とは何て素晴らしいところと思ったのでしょうか。

現代の建築を思わせます?                              設計はどんな人がしたのでしょう。水の上に浮かび、左右対称でシンプル。現代のモダンな建築にも見えてきます現在の私にもよく理解できない構造計算はどうだったのでしょうか。                                    

スペイン・バルセロナの世界遺産サクラダファミリアのアントニ・ガウデイさん国立西洋美術館本館のル・コルビュジエさん、東京オリンピック国立屋内競技場の丹下健三さんのように美的感覚にあふれて、繊細な感性と素晴らしい創造性を持つ人が、約1,000年前の日本に存在したと考えると、とても楽しくなりますね。平等院は、世界遺産「古都京都の文化財」を構成する17物件の1つとして、1994年に世界遺産に登録されています。              ※末法(まっぽう)思想とは、釈迦入滅後(仏教用語で、亡くなること)時代と共に正しい仏教が衰退し、末法の時代に入ると、仏の教えも滅びつつあり世の中が乱れ悪い時代になるという、仏教上の思想、予言のことです

貴族の没落

律令による中央集権体制が崩れ始め、9世紀後半には荘園制を基盤とする摂関政治、譲位した後の上皇が政治を敷いた院政時代を経て、荘園制度が全国に広まると「自分たちの土地は自分たちで守る」という農民がでてきて、護衛のための武士が生まれ、貴族出身の平家や源氏が武士団を結成していきます。やがて平安朝の貴族社会は、新たに台頭してきた武士の勢力に押され、次第に没落していきます。

※摂関政治とは、貴族の藤原家(ふじわらうじ)が皇室と姻戚関係を結んで摂政・関白となり、政治の実権をにぎり行った政治をさします。

栄華を誇った一つの時代が新しい勢力に押されて没落していく        時代の流れと共に、平安朝の貴族社会が没落していくのですが、私はイタリア映画の巨匠ルキノ・ビスコンティの代表作で、第16回カンヌ国際映画祭で最高賞(グランプリ)に輝いた映画『山猫』を思い起こします。日本では1964年公開で50年以上前の映画ですから、知らない方が多いと思いますが。(2018年6月にNHK BSテレビで放映されています)平安朝が没落していくのは12世紀末で、映画『山猫』は1860年代のイタリアの物語ですから、時代も背景も全く異なりますが、栄華を誇った一つの時代が新しい勢力に押されて没落していく姿は同じです。映画は主演バート・ランカスター、アラン・ドロン、音楽は作曲ニノ・ロータと私の好きな人たちばかりで作られています。イタリア・シシリア島の名門貴族バート・ランカスターの時代から、甥で若き革命派アラン・ドロンに代表される勢力に変わっていく時代の変化を描いています。時の流れと共に没落していく時代への郷愁と自分自身へ寂しさ、時代は変わったのだ、自分も老いたのだと自分に言い聞かせる哀しみ。演じたバート・ランカスターの姿が今でも鮮明に目に浮かび、ニノ・ロータ作曲の哀愁を帯びたメロディーが聞こえてきます。これは老齢になった?現在の私自身を、重ね合わせてよりいっそう、そう思えるのかもしれません。

鎌倉・室町時代

鎌倉時代

源頼朝が鎌倉幕府を1185年から,1333年に鎌倉幕府が滅亡するまでの約 150年間,鎌倉を拠点とした武家政権の時代です。武家階級が新興勢力として力をつけていきます。鎌倉時代の仏教は実践思想を中心に、優れた多くの仏教思想家が現れ、のちに強大になるご宗派の基はこの時代に築かれています。

室町時代

足利尊氏(あしかがたかうじ)が京都・室町に足利幕府を開いた1336年から15代将軍義明が織田信長に追放される1573年までの約240年間が室町時代です。前期を南北朝時代(1336~1392)とよび、1467年の応仁の乱以降を戦国時代とよばれています。

家が成立し、村が生まれた

“平安時代、人口の大部分を占めた農民(百姓)は、年貢や労役などの重い負担を強いられていました。鎌倉中期になると牛や馬による農作業への活用、鍬(くわ)や鋤(すき)などの鉄製農機具の改良開発、水田にとって最も大切な水路や水を導く水車技術の向上などにより、生産性が上がり農産物の収穫高が急速に高まり、この時代に初めて二毛作も始まっています。収穫高や生産性の向上により、世帯数も増加し、ものつくりの職人や農産物や農業に必要なものを流通させる商人も増えています。農作業長年にわたる耕作の事実を通じて土地への結びつきを強め、やがて土地所有権を獲得していき、身分としての農民(百姓)が生まれたとされます。鎌倉時代後期は戦乱が続き、戦乱や盗賊からの自衛のため、また農業に欠かせない道路や水路の新設・改修、水路の配分などの必要から地縁的な結合を強め、田畑から離れて住まいを集合させる「村落」が作られていったとされます。

映画『7人の侍』

百姓(農民)が生まれ、村落がつくられていく時代風景を考えるときに、故・黒澤明監督の映画『7人の侍』を思い出します。黒澤明監督の映画1954年制作の『7人の侍』は、数ある黒澤明作品のなかでも名作中の名作であり、日本が世界に誇る映画です。私にとってもベストワンの映画です。黒澤明監督は「世界のクロサワ」と呼ばれ、日本を代表する」映画監督です。「ゴットファーザー」や「地獄の黙示録」で知られる「フランシス・フォード・コッポラ」さんや「E・T」「ジョーズ」「インディ・ジョーンズ」シリーズのスティーヴン・スピルバーグ監督にも大きな影響を与えているといわれます。映画『7人の侍』は、戦国時代の「百姓(農民)」の姿、「村落が形成される時代背景」がリアルに描かれ、家が成立し、村が生まれた当時の百姓の苦境、村の置かれた時代背景を私たちに教えてくれます。                           “戦国時代の貧しい農村を舞台に、野盗と化した野武士に立ち向かうべく農民に雇われた侍たちの闘いを描いた作品。麦の刈入れが終わる頃。とある農村では野武士たちの襲来を前に恐怖におののいていた。百姓だけで闘っても勝ち目はないが、麦を盗られれば飢え死にしてしまう。百姓たちは野盗から村を守るため侍を雇うことを決断する。やがて、百姓たちは食べるのもままならない浪人たち7人を見つけ出し、彼らとともに野武士に対抗すべく立ち上がる”       『映画.Com 作品紹介』よりここに作品紹介をさせていただきました。

映画の中で、集落より離れた場所にある1軒の農家は野武士に襲撃され焼け落ちてしまいます。「鎌倉時代後期は戦乱が続き、戦乱や盗賊からの自衛のため、また農業に欠かせない道路や水路の新設・改修、水路の配分などの必要から地縁的な結合を強め、田畑から離れて住まいを集合させる《村落》が作られていった」という史実を、改めて映画『7人の侍』で、納得してい黒澤明監督のこの『7人の侍』は、とにかく面白くて凄いです。60年以上前の公開ですが、時代の違い、古さを感じさせません。迫力・面白さは「スターウォーズ」にも勝るとも負けません。野武士が馬に乗って襲撃してくるシーン、村落の中での戦闘シーンなどの迫力は半端ないってです。脚本もカメラワークも音楽もGood/Goodです。武士・百姓・野武士の出演者の人たちすべてにリアリティーがあり、三船敏郎さんも良かったですが、7人のリーダー勘兵衛役の志村喬さんは抜群です。

映画のエンディングで、志村喬の勘兵衛さんが「戦いに勝ったのは侍ではない、百姓たちだ」とつぶやきますが、黒澤明監督にとって『7人の侍』のコンセプトはこのことだったのだと思っています。1954年・昭和29年にこんな素晴らしい映画を、私たちの日本が制作したのだと思うと元気が湧いてきます。私はもう幾度となく見ていますが、何度見ても新鮮です。まだ見ていない方がいらっしゃいましたら、是非映画館の大型画面で是非ご覧ください。こうしていても山から駆け下りてくる野武士の馬の蹄の音が響いてきます。              参考資料 『映画.Com 作品紹介』

仏教が庶民の身近に

農民が生まれ、家や村が生まれ、商品が流通して商業も盛んになり、生活が向上することで、一般の庶民が悩みや無常観を持つようになってきます。仏教は複雑で難しい理論や教えより、庶民の日々の生活に適用できる、単純化された実践的な信仰・仏教が求められたとされます。鎌倉時代の仏教は、活発に改革の機運にあふれ、多くの実践的な試みがなされています。

貴族だけのものだった仏教が、身近となり、信仰することができるようになった庶民の気持ちは、どんなに高揚に満ちたものだったでしょうか。

やさしく教えを説く新しい仏教へ

鎌倉時代の仏教は、多くの優れた仏教思想家・仏教の実践指導者を生み、のちに大きなご宗派となる礎を築いています。国家や貴族の仏教から、新しく生まれてきた武士階級や農民など一般庶民の仏教へ。鎮護国家の思想や経典の研究などの従来の仏教から、ふつうの人、一人一人の悩みや悟りに寄り添う仏教が新しく生まれ、従来の仏教のなからも改革をめざす動きが活発になったのが鎌倉時代の仏教の特徴とされています。平安時代・貴族の仏教が持つ経典の難しい教えでなく、武士や普通の農民など庶民にも解りやすく、やさしく教えを説く新しいご宗派は、やはり新しく生まれた武士や農民、庶民の信仰する仏教へなっていきます。

◇あたらしく開かれたご宗派

・法然(ほうねん)浄土宗 ・親鸞(しんらん)浄土真宗 ・一遍(いっぺん)時宗 ・栄西(えいさい)臨済宗(禅宗) ・道元(どうげん)臨済宗(禅宗) ・日蓮(にちれん)日蓮宗 

浄土宗・浄土真宗

鎌倉時代初期に、法然が南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)唱えることで救済されると説く浄土宗を開いています。法然さんは庶民の大きな支持を得ていましたが、幕府からの弾圧も受けています。浄土宗は知恩院を本山として、港区芝公園の増上寺も浄土宗です。法然の弟子の親鸞は、鎌倉時代前期に、『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著して、阿弥陀仏を信ずる信心が往生の正因とする浄土真宗を開いています。親鸞さんも幕府から弾圧を受けますが、信者の方は増え続けて、戦国時代の第8世蓮如(れんにょ)の時に大きく発展し、庶民の支持を広く受ける宗派となっています。江戸時代・徳川家康の時に、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区堀川通)と、真宗大谷派(本山・東本願寺、京都市下京区烏丸通)とに分かれています。

禅宗  臨済宗・曹同宗

鎌倉時代初期に、中国・宋に渡った栄西を開祖とする臨済宗が京都・建仁寺に開山しています。妙心寺派、天龍寺派、東福寺派、南禅寺派、相国寺派、大徳寺派、建長寺派、円覚寺派、永源寺派、方広寺派、国泰寺派、佛通寺派、向獄寺派、と14寺派となります。やはり中国・宋に渡った道元が鎌倉時代中期に曹同宗を開いています。修行そのものを悟りと見なし、ひたすら坐禅する「只管打坐(しかんたざ)」を説き、越前に「永平寺」を開山し、福井県の永平寺と横浜市鶴見区の総持寺が大本山となります。第四祖の「瑩山(けいざん)」のときに大きく発展しています。

日蓮宗

鎌倉時代後期に、日蓮が「法華経」を唱えることを説き、日蓮宗を開いています。山梨県の身延山久遠寺を本山としています。幕府から多くの弾圧・迫害を受けています。

新しい仏教が社会に定着した室町時代

14世紀から16世紀にかけての室町時代の仏教は、武士、豪族、農民、商人など多くの階層の人たちに支持されて、発展していきます。鎌倉時代に開かれた浄土宗、浄土真宗、禅宗の臨済宗、曹同宗、日蓮宗などの新しい仏教が社会に定着してゆき、複雑な理論よりも実際の生活に適用できることが求められ、単純化された理論と実践が発展しています。 戦国時代には、一向一揆や法華一揆といった宗教を軸に支配者に対抗する動きが全国で起きました。 天下を目指す大名にとって、これらの宗派と信者の動きは大問題であり、融和と弾圧の政策が取られました。

簡素で整備された儀礼・在家の葬儀へ

応仁の乱前後は日本史のなかで社会の転換期にあたるといわれます。きちんと形式の整った葬儀儀礼が求められるようになり、修行途中で亡くなった僧侶の葬送儀礼を備えていた禅宗が、在家者を同じように遇しその葬送儀礼を適用しています。この禅宗の儀礼が今日の仏教による葬儀の規範となり、宋に渡った僧や招かれて宋から来た僧侶によって、位牌も日本に伝えられたといいます。室町幕府初代将軍「足利尊氏」の葬儀の際に、「足利尊氏」の位牌がつくられた記録があり、これはこのころに位牌があったことの証明でもあるとされています。鎌倉時代・室町時代の位牌については、「位牌の成立」の項で詳しく考えてみたいと思います。                                参考文献「末木文美士 『日本宗教史』岩波書店 2006」「菊池章太『位牌の成立 儒教儀礼から仏教民俗へ』東洋大学出版会2018」

北山文化・東山文化の美意識?

北山文化室町時代初期、足利義満時代に栄えた文化を北山文化といい、義満が隠居所とした京都北山山荘にちなんで、こうよばれてばれています。足利幕府が保護した禅宗思想を背景とした宋(そう)文化、伝統的な公家文化と新興勢力の武家文化の融合に特徴があるとされ、鎌倉・京都の禅寺を中心とした五山文学(漢詩や漢文、随筆など)、水墨画などが栄えています。       

金閣寺

「鹿苑寺(ろくおんじ)」は、「臨済宗相国寺(しょうこくじ)派」に属し、鹿苑寺としてよりも壮麗な「金閣寺」として知られています。内・外ともに金箔をおしたきらびやかな3層の舎利殿から金閣寺とよばれ、舎利殿金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたとされ、庭園も名園として有名です。1950年(昭和25)放火によって焼失しましたが、14955年に再建されています。鹿苑寺(金閣寺)は1994年(平成6年)に世界文化遺産として(世界文化遺産。京都の文化財は清水寺など17社寺・城が一括登録されている)登録されています。余談ですが、金閣寺の焼失を題材にして、三島文学のなかで芸術的価値が最も高いとされる作品のひとつに小説『金閣寺』があります。三島由紀夫の代表作で、海外でも多く翻訳されるなど評価が高い小説です。私も昔読んだ記憶がありますが、三島由紀夫小説はとても難しくてよく理解できなかったことを覚えています。また読んでみたい気持ちはありますが、年齢を重ねた私にはやっぱり無理でしょうか。少し寂しい気もしますが。でも「年齢」を重ね「しわ」と「しがらみ」纏った現在の方が三島由紀夫の世界を理解できるかもしれませんね。

東山文化                                室町幕府8代将軍足利義政時代を中心として、15世紀後半の文化を指します。義満が東山に造営した山荘・慈照寺(銀閣寺にちなんで東山文化とよばれています。東山山荘(ひがしやまさんそう)には、公家,僧侶,武士,町人など,以前には考えられなかった広範囲の階層の人たちが集い、前期の北山文化をより深化して、禅宗思想と宋文化の影響、伝統的な雅の公家文化、新しく生まれた武士と庶民の新しい文化・風を融合させているとされます。書院造り(上級武家住宅スタイルの始まりとされ、現代の住宅スタイルにもそのなごりがあるといわれます)、禅宗の枯山水(かれさんすい)を意識した庭園、茶(茶の湯)、立花(りっか)(華道)、水墨画、能など新しい生活文化が盛んになり、わび・さび・幽玄性が尊重される日本文化の源流となったといわれています。また東山文化は多くの階層の人たちが参加しているので、地方武士などを通じて、その文化が地方にも普及したとされています。慈照寺(銀閣寺)東求堂内に多くのお位牌を並べて安置する位牌棚があり、ここから「位牌棚」を、お位牌を安置するお仏壇の源流ではないかという有力な考え方があります。     

※書院造りとは、上級武家住宅スタイルの始まりとされ、床の間に畳敷の部屋、障子や襖(ふすま)を使用して、現代の和風住宅の原型になったといわれます。

秋の夕刻人混みが途切れた頃に

余談ですが、北山文化の「鹿苑寺(金閣寺)」」もいいですが、私的には東山文化の慈照寺(銀閣寺)」がいいですね。庭園とともに、日本文化の詫び・寂び・幽玄性と静けさを感じさせてくれます。初冬の夕刻人混みが途切れた頃に、一人で静かに「慈照寺(銀閣寺)」を見ながら、足利義政の美意識をゆっくりと味わってみたいと思います。

日本文化の詫び・寂び

“ 見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ  (藤原定家)”

“花をのみまつらむ人に山里の雪まの草の春を見せばや   (藤原家隆)”

日本を代表する仏教学者・思想家といわれる「鈴木大拙」先生が、英語で執筆して不朽の名著といわれる『禅と日本文化General Remarks on Japanese Art Culture』(北川桃雄先生訳)(講談社)のなかで「さび、わび」について、上記の歌二首を上げています。海外でも名声の高い「鈴木大拙」(1870―1966)先生は仏教、禅の思想家で、アメリカの大学で教鞭をとり、禅や仏教についての英文著作も多数あります。日本を代表する思想家といわれ、1949年に文化勲章を受賞しています。日本文化を象徴するとされる、詫び・寂びについては、なんとなくわかるような気もしますが、私にはよく分からないというのが本当です。 この鈴木先生の『禅と日本文化・General Remarks on Japanese Art Culture』を、時間をかけてじっくりと読んでみたいと思います。残念ながら、もちろん北川桃雄先生の日本語訳です。

安土桃山時代  織田信長の時代 

信長はキリシタンとは友好的でしたが、仏教には敵対して武力弾圧を行い、浄土教の比叡山を攻撃して焼き尽くしています。浄土真宗の石山本願寺を11年間の戦いの末、本願寺11世の顕如を石山退去させています。一向一揆や法華一揆は戦国時代の特徴とされています。

豊臣秀吉の時代

秀吉は仏教を保護して寺院の復興を進めることで、融和による統制を行っています。また、秀吉は「太閤検地(たいこうけんち)」とよばれる検知を行い、一地一作人制を原則として農地一筆ごとに耕作する農民の権利を確定しています。この太閤検地は小農の自立を促し、江戸時代初期の小家族(夫婦と子供による家族)、人口の爆発的増加の大きな原因の一つとされています。

江戸時代  

人口の急増

“ 歴史的に人口の変化を見ると、室町時代~江戸幕府成立期には人口増大が始まり、江戸時代前期(17世紀)には人口が急増して、17世紀初頭から18 世紀初頭までの1世紀の間に、日本の人口は1,200 万人余から3,000 万人以上へと2倍半に急増しています。       室町時代~江戸幕府成立期の人口増大の背景としては、二毛作、牛馬の使用、灌漑施設の整備等が進み農業の生産性が向上したこと、意欲的な開発領主としての武士が土地支配の実権を強めていったこと、商業が発達し都市と農村間の経済活動が活発化したこと等があるといわれます。                    

江戸時代前期に生じた大きな変化は小農の自立です。平安末期以降の荘園・公領は、名主(みょうしゅ)と呼ばれる有力農民の下に下人等、多くの隷属農民が属する形態でした。    室町時代以降、隷属農民は徐々に経済的に自立する動きを見せ、この流れを決定的にしたのが16 世紀末に行われた太閤検地です。

太閤検地は一地一作人制を原則とし、農地一筆ごとに耕作する農民を確定した。このことは小農の自立を促し、家族を単位として耕作を行う近世農村への道を開いています。

小規模な直系家族を中心とした家族形態へ

江戸時代初期には、名主的な有力農民の下に、下人等の隷属農民、名子(なご)や被官などと呼ばれる半隷属的小農、半隷属的傍系親族等が大規模な合同家族を形成するという形態が残りましたが、時代の進展とともにこれらの下人、名子、傍系親族等は徐々に独立して小農となっています。それに伴いこれら小農は新たな世帯を形成し、大規模な合同家族を中心とした家族形態から比較的小規模な直系家族を中心とした家族形態への転換がおきています。     

17 世紀の「人口爆発」

“このように小農が独立し、結婚して世帯を形成することが可能となったこと、旺盛な新田開発もこれを経済的に裏付けたこと、小家族経営による農耕が農民の勤労意欲を高めたこと、兵農分離や参勤交代による都市人口の増加が農産物需要の増大を招いたこと等が相まって、17 世紀の「人口爆発」を招いたものと推測されます。そして現代において伝統的家族と考えられている直系家族は江戸時代に生まれたのである“             

上記は、WEBサイト第三特別調査室 縄田康光 『歴史的に見た日本の人口と家族』立法と調査 2006.10 No.260によります。WEBサイト『歴史的に見た日本の人口と家族』は、日本の歴史から見た人口と家族について詳しく、分かりやすく書かれています。この人口の変化を見ると日本の歴史の背景が見えてきて、日本の歴史がとても新鮮に感じられます。縄田さんの労作には感謝申し上げます。多くの方がこのWEBサイトを見られることをお勧めします。

庶民の菩提寺

上記のような歴史の流れの中で、江戸時代初期から小規模な直系家族を中心として、人口が急増していきます。独立して家庭を持ち、時の経過とともに各家庭では、無常観や悩み、葬祭の必要性、先祖供養の意識が高まったのもわかります。                             

このような時代背景のなかで、小規模な家族形態の家々が集合して、寄り合い的な寺院が生まれ、こうして生まれた寺院と永続的に葬祭の関係を結び、お布施を行ってその寺院の護持にあたる檀家と檀那寺(菩提寺)の関係が成立しています。

貴族や武家だけのものと考えていた檀那寺(菩提寺)を持ちえたことは、当時の百姓(農民)・普通の庶民にとって大きな喜びだったでしょう。現在の私たちにはとても理解できないと思います。現在の日本の寺院の9割近くが戦国時代末期から江戸時代の初期までに成立したとされているのも、このような大きな時代の転換期がもたらしたものではないでしょうか。

※檀那寺(だんなでら・菩提寺)とは、信徒がその所属する寺を呼ぶときに用いられ,先祖の位牌を預け,葬祭を執り行う寺院のことです。所属信徒は檀家(だんか)や檀徒(だんと)といいます。檀那寺は宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)などの作成時には、その家が檀家であることを証明しなければなりませんでした。    

幕府による宗教統制

江戸幕府は仏教寺院,僧侶を統制するための寺院法度(じいんはっと)とよばれる法令や「寺檀制度(じだんせいど)」「寺請制度(てらうけせいど)」「宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)」などを制定して、民衆統制・宗教統制を行っています。

寺院法度(じいんはっと)とは?

寺院の力が強くなることを恐れた徳川幕府が寺院統制のために仏教各ご宗派にだした多くの法令のことです。高野山あての高野山法度をはじめとして、本寺末寺関係の確定(あいまいだった本寺と末寺の確定を目的としています。),宗学奨励,僧侶階位や寺格の厳正,私寺建立禁止などが主要なものとなっています。

寺檀制度(じだんせいど)制度とは?

寺院が特定の家と、お布施(ふせ)を受けることで永続的に葬祭を中心として行うという檀那寺(菩提寺)と檀家の関係を結んだ制度を寺檀制度といいますが、徳川幕府が寺檀(じだん)の関係を基礎とし、寺請(てらうけ)や宗旨人別帳を制度化したことにより、寺檀の関係が徳川幕府の「寺檀制度」とし制度化されています。

寺請制度・宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)とは?

寺請(てらうけ)制度とは、「寺院・檀那寺菩提寺)に檀家の家族個々がキリシタンなどの信徒でないことを証明させる」制度で、この寺受制度により、全ての人がどこかの寺院に所属することになりました。17世紀初めに徳川幕府がキリシタン禁制政策のために始めています。

次第に戸籍台帳としての機能が強く

宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)とは、江戸時代,村や町ごとに作成,領主に提出された戸口の基礎台帳のことで、もとは別々に行われていたキリシタン禁制のための「宗門改め」と,領主による夫役負担能力把握を目的とする「人別改」を複合したものです。キリシタン禁制を目的としましたが、次第に戸籍台帳としての機能が強くなっています。  

幕府領の場合には家ごとに戸主・家族・奉公人・下人などの名前・年齢,各人ごとの檀那寺(菩提寺)を記し,キリシタンでないことを証明する檀那寺の印が押され,戸主には身分・自分の持高・牛馬数・村の戸数、男女別の人口合計なども併記されるのが一般的でしたが,藩により形式は様々のようです。

人々がそれぞれの宗旨と檀那寺(菩提寺)を定める

寺請と宗門人別改帳により、人々がそれぞれの宗旨と檀那寺(菩提寺)を定め、寺と檀家の関係は固定化されて、寺や宗旨を変えることはできなくなりました。出産や死亡、嫁入りなどの婚姻、奉公で家を出るとき、旅にでるときなどは、檀那寺(菩提寺)の寺送状(てらそうじょう・檀家証明書)を必要とするようになっています。寺院は戸籍を通じて町役場のような行政の一端を担うことになりました。この寺請と宗門人別改帳による、民衆統制は徳川幕府が倒れ、明治政府による明治4年の新戸籍が制定されるまで続いていました。

仏式による葬儀の定着

寺檀・寺請制度の成立により、すべての人たちが家単位で必ずどこかの檀那寺(菩提寺)に檀家として登録することになり、江戸時代の日本人はすべて仏教徒となり,先祖以来の固定した宗旨と檀那寺(菩提寺)をもつこととなりました。                   

こうした制度の成立により、仏教は一面では保護され、庶民化されましたが、宗教は個人の自由な信仰によって成り立つのでなく、家単位でなりたつものになっています。

寺檀(じだん)・寺請(てらうけ)の幕府による制度化により、仏教による葬儀が定着することになり、仏教による葬儀とともに、鎌倉時代から武家を中心に広まっていた位牌が庶民にも作られるようになります。このことは「位牌の成立」の項で詳しく考えてみたいと思います。

寺檀制度・寺受制度の確立により、大きな責任も

檀那寺(菩提寺)が永続的に檀家の葬祭を担って、お布施(ふせ)を受ける寺檀・寺請制度は檀那寺(菩提寺)の経済的安定をもたらしてくれましたが、寺受や寺送状、宗門人別改帳の作成、実質的な戸籍の管理、墓地の管理を通じて死者も管轄するなど、幕府の統制を受けるとともに大きな責任を担うことになります。“末端における民衆の把握が行政だけではなしえず、仏教の力を借りなければならなかったことを考えると、それだけ宗教の役割は大きかったということであり、過小に見ることはできない。”                    参考資料「末木文美士『日本宗教史』岩波書店 2006」

仏教への批判

檀家からのお布施や独占的な葬儀、幕府からの保護による一家一寺制の規制、離檀の不可など寺檀・寺請制度への批判、葬式仏教と呼ばれる批判があるのも事実です。                                 ※離檀とは、菩提寺と檀家の関係を解消することです。

三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)

徳川幕府の行政組織として三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)がありましたが、寺社に関する行政は一般の行政とは区別されて、寺社奉行が全国の寺社ならびに寺社領民の支配や訴訟審理を管掌し,宗教統制を担っています。三奉行のうち、寺社奉行が最上位で将軍直属となっています。

火付盗賊改とは?

余談ですが、池波正太郎さん原作で小説やテレビでおなじみの『鬼平犯科帳』の「火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)」とは、江戸幕府でどんな組織だったのでしょう?      

火付盗賊改は、火盗(かとう)とも呼ばれ、盗賊の捕縛、火災の予防、博徒の取り締まりなどを行な江戸幕府の職名です。江戸の町方の行政・司法・警察などを管轄していた「町奉行」とは全く異なる別の組織です。江戸幕府の常備軍として殿中・城門の守衛,城番,主君出行時の警護などを担う先手組(さきてくみ)の頭(かしら)が火付盗賊改を兼務として命じられたのが始まりで、のちに正式な職制となっています。池波正太郎さん原作で小説やテレビでおなじみの「長谷川平蔵」は、江戸時代後期に実在の人物で、先手組の頭、火付盗賊改をつとめています。無宿人対策として人足寄場(よせば)建設を提案し実現させ、無宿人に技術を教えたり、農民への道を開くなどに尽力したといわれています。

二代目中村吉右衛門さん

『鬼平犯科帳』「長谷川平蔵」と言えば、現代歌舞伎の立役を代表して人間国宝の「二代目中村吉右衛門」さんですね。貫禄・演技はもちろんセリフの一言一言が素晴らしいです。「中村吉右衛門」さんあっての鬼平犯科帳です。     私としては、「人間国宝・8代目松本幸四郎・初代白鴎(はくおう)」さんも忘れられません。「二代目中村吉右衛門」さんは、「8代目松本幸四郎・初代白鴎(はくおう)」さんの息子さんです。                   私はテレビの「8代目松本幸四郎」さんの『鬼平犯科帳』で「「長谷川平蔵」を知り、池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』に入っています。池波正太郎さんは8代目松本幸四郎」さんをイメージして、『鬼平犯科帳』を創作したといわれています。「8代目松本幸四郎」さんは歌舞伎「勧進帳」「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」など多くの名演技で有名ですが、シェイクスピア「オセロ」でも知られています。

シェイクスピア

私は十七代目・中村勘三郎さん(現中村勘九郎・七之助さんの祖父・おじいちゃんです。)のシェイクスピア『リチャード三世』を日生劇場で見た記憶がありますが、「8代目松本幸四郎」さんの『オセロ』は見ていませんので、大変残念でなりません。十七代目・中村勘三郎さんが舞台の裏手から、甲冑の音を響かせながら大きな声と共に現れる場面は、甲冑の音とともに今でも忘れられません。

お位牌の成立ち

“位牌は死者を偲び供養するしるしであって、普段は家の仏壇に安置され、家族の礼拝を受け、盆には盆棚などに移され、供物をあげて祀られるのが一般的である。”

“位牌の扱いは様々で、三十三回忌を過ぎると焼却したり、墓地に埋めたり菩提寺へ納めたりする例もある一方、その家の先祖代々の象徴として永く守り伝えて供養する例もある”

“このように、近世以降の生活の多様化の中で、位牌をめぐる民俗も多様化したものとみられる。そうした経緯を辿り、日本仏教は位牌を中心とした儀礼として庶民に定着していったと言えよう。”

『位牌はどこからきたか 日本仏教儀礼の解明』のなかで、日本仏教学の碩学・大正大学名誉教授「多田孝正(ただ こうしょう)」先生は、でこのように述べています。 又、位牌の成立ちについては、中国から伝えられたものではなく、位牌は神道の「霊代(みたましろ)」から転じたとする神道起源説もあります。 そして、日本民俗学から位牌・仏壇について様々な研究・アプローチがなされています。「仏教民俗学」を唱えた大谷大学名誉教授「五来 重(ごらい しげる)」先生は、神道の葬祭で「霊代(みたましろ)」とよぶものの原型が「斎木(いはいぎ)」であり、これが儒教の紙位牌の形態と文字をかりて「位牌」になったもので、「いはい」の音はこれから出て、「位牌」の文字をあとからあてたものであり、その根源は日本の固有の文化にあるといいます。お位牌の成立ちを探るため、儒教の歴史、インドからの仏教の流入から始まる中国の仏教の歴史、日本の仏教の歴史を見てきました。この歴史の中からお位牌の成立ちを考えてみたいと思います。

儒教の葬送儀礼から始まる葬送儀礼とともに

前漢の時代(紀元前206年 ~ 8年)に編まれ儒教の経典『儀礼』『礼記』がありますが、天子・諸侯・士大夫(したいふ)の葬儀儀礼について詳しく書かれた記録のなかに、後世の位牌につながるものとされるもの記述が多くあります。

のちの位牌・仏壇につながるものが?

天子・諸侯・士大夫(したいふ)など貴族の葬送の際に「銘(めい)」「重(ちょう)」「帛(はく)」などと呼ばれる、霊を依(よ)りつかせるという依代(よりしろ)が作られ、庭や墓所などに立てられたといいます。これらには「○○氏○○之柩(ひつぎ)」と書かれ、○○のところに故人の名が入ります。これらは葬送の節目・節目で土に埋められています。

最後に新しい依代の「主(しゅ)」が作られ、新しい依代は木製で、「木主(もくしゅ)」とも、神霊を宿す「神主(しんしゅ)」とも呼ばれたといいます。

後漢の時代(紀元23年~184年)の経典『五経異義』によれば、主は直方体の木を台の上に立てたもので、四面の中央に穴が開けられています。「主」のサイズは一定ではなく、君子や貴族などの階層や時代によって異なり、唐代には、黒漆の箱に入れられた「主」も存在しています。

『五経異義』には「故人を哀惜するがゆえに衷心よりこれをととのえる」との記述があり、この言葉は、現在の私たちが位牌に込める気持ちと全く変わらないものでしょうか。

司馬遷の『史記』に

紀元前 11世紀頃中国・周の武王が殷(いん)の紂 (ちゅう) 王を討つために出陣した際に、父文王の墓前で祈願をしたのち「主(しゅ)」をこしらえ、主を戦車に乗せて中軍におき、これは父・文王の命を奉じての戦いであり、武王自身の恣意によるものではないことを表したものとされます。

この周の武王と殷の紂王の戦いは、紀元前90年頃・前漢の時代司馬遷によって書かれた歴史書『史記』にある歴史上有名な戦いですが、この時代に「主」が存在したという言い伝えがあり、これを司馬遷が書いたもととされています。

現代の仮位牌・野位牌に通じる? 貴族の葬送の際に「銘」「重」「帛」などと呼ばれる、霊を依(よ)りつかせるという依代(よりしろ)が作られ、依代(よりしろ)には「○○氏○○之柩(ひつぎ)」と書かれ、○○のところに故人の名が入ったといいます。これらは墓所などに立てられた後、葬送の節目・節目で土に埋められています。

現代のご葬儀の際に、ご寺院から白木位牌(仮位牌ともよばれます。)と地方によっては野位牌が用意されます。白木のお位牌は亡くなられた故人の枕元に立て、葬儀の際は祭壇の正面か棺の近くに置かれます。野位牌は野辺の送りで喪主が墓地までもっていき、墓石の前に置かれたり、もしくは埋葬した地面に置かれます。

白木のお位牌は葬儀の後は家で祀られ、四十九日の忌明けが終わると本位牌を用意して、白木の位牌は忌明けには墓地に埋めるか焼いたり、菩提寺に納めるとか地方によって異なりますが基本的には消えて無くなります。本位牌は仏壇にお祀りしますが、本位牌には漆塗の位牌や今はモダンなデザインの位牌も数多くあります。  

でも不思議ですね。2,000年前に行なわれていた葬送の際の位牌に近いものの考え方・扱いが現代日本の葬儀の際の位牌のあり様に似ていますね。葬送や位牌のように、私たち人間にとって大切なものは、いつの時代でも思うことは同じで、変わらないものなのかもしれません。                                                                                      

12世紀・宋代に、位牌により近い類似のものが

この頃より「主」の代わりに、薄い木の板に「先祖(故人)の名前」とその下に「神坐」と書いた神版(しんぱん)」が、卿大夫士(けいたいふし)に多く用いられるようになっています。「神版(しんぱん)」は「しゅ」と同じく霊魂が依りつくものとされ、神板・詞版・位版・位板・主牌などと呼ばれています。

日本の位牌の原形は「主」とされますが、「薄い木の板」という形状や「位板・主牌」とも呼ばれた名称の類似性、「○○之神坐」と書くなど、「神版(しんぱん)」の方が、より近いのではないかと考えられています。

庶民にも「主」と、先祖を祀る「祠堂(しどう)」のすすめ

古代からの儀礼は貴族などのためのものでしたが12世紀南宋の時代に、朱子学の創始者「朱熹(しゅき)」が新しい儒教を開き、新しい礼儀作法の書『朱子家礼(しゅしかれい)』で庶民にも可能な儀礼の実践を奨励して、庶民にも「主(しゅ)」と先祖を祀る「祠堂(しどう)」をつくることを説いています。

家廟の普及とともに「主(しゅ)」とともに「神版」が多く用いられるようになったといいます。

※祠堂(しどう)とは、先祖の霊を祭るとこで、みたまやとも呼ばれます。

※廟とは、社先祖の像や位牌を安置して、霊をまつる建物のことです。

※卿大夫士(けいたいふし)とは、国古代の身分制度で、天子諸侯の臣下の身分を指しましたが、時代と共にこの身分制度は実態が無くなりましたが、各王朝の官僚制度のなかに残存し、官職にある者一般、さらには読書人、知識人といった社会階級をさす言葉としても用いられています。同様な言葉に士大夫があります。

参考文献「菊池章太 『位牌の成立 儒教儀礼から仏教民俗へ』東洋大学出版会 2018」 「多田孝正 『お位牌はどこから来たのか 日本儀礼の解明』 興山舎 2015」

中国・禅宗の葬送儀礼

今日の仏式の葬儀の基礎を築いたのは禅宗で、位牌も禅宗からはじまるといいます。宋の時代は、門閥貴族たちが没落して、新しい地主階層が生まれ、一般の人でも科挙・試験に合格すれば支配者階級になれるなど、一般庶民が力をつけ、中国社会が庶民中心の社会に大きく転換する時代でした。儒教も大きく転換しましたが、仏教も大きく転換しています。                

儒教も仏教も相互に影響を受けながら、仏教も庶民を中心とした新しい社会に適応した葬送儀礼の基本を構築しています。禅宗には禅宗寺院の日常生活の規則を定めた規則集があり、そのなかで規定された葬儀作法には、修行を修めた僧侶と修業半ばで亡くなった亡僧との二つがあったといいます。                                  

在家のための葬送儀礼

もともと禅宗には在家のための葬送儀礼はありませんでしたが、在家の葬儀にあたり、亡僧の葬送儀礼を用いることで在家のご葬儀に対応しています。戒を授かる。それによって仏弟子になり、出家者になります。戒を授かった出家者には仏弟子としての名があたえられて、これを戒名といいます。没後に戒名を授かる風習はここからはじまったといいます。         これが後世の葬儀の規範となり、この葬送儀礼が後世の在家の葬儀の規範となり、現在の仏式葬儀もこれに習っているとされます。

そして、この宋の時代に、官職にある人、読書人、知識人などの葬儀の際には、「神牌」が用いられ、表面に「〇〇之神坐」と書かれたといいます。「神牌」は位板・主牌とも呼ばれています。

「柩の前に位牌をならべて香と灯を供養す」

更に宋の次の王朝「元(げん)」の時代、1311年に編集された禅宗規範に、亡僧のご葬儀で「柩の前に位牌をならべて香と灯を供養す」とあり、「位牌」には「〇〇之神坐」と記されます。こうして「元」の時代から、中国の禅宗で位牌が用いられるようになります。

宋の時代には、門閥の貴族等は没落していますので、宋代の卿大夫士は新興の地主階層であったり、科挙の試験により官職についた一般の人たち出身であり、科挙により選ばれた人たちは世襲により官職を世襲することはできなかったので、実質的には一般の人に「神牌」が用いられ、元代には「位牌」が一般の人に用いられたことになります。

そして、この禅宗から生まれた「位牌」が日本に伝わります。

位牌の日本への伝来

鎌倉時代に中国・宋に渡った入宋僧や宋から日本に来た渡来僧によって位牌が日本に伝わってきたとされます。臨済宗の学僧「義堂周信」の日記「空華日用工略集」1371年12月に位牌について書かれていて、「位牌、古は有ることなし。宋より以来、之れ有り」とあります。

鎌倉時代の将軍や僧侶の葬儀・位牌

東山・東福寺には、1292年に東福寺第二世の一周忌に際し位牌を設けた記録があり、鎌倉・建長寺には1326年に「凡そ祖堂に入らば、当に一々歴代の位牌を平等に供養すべし」と説かれたとの記録が存在し、共に鎌倉時代のことです。                           

室町時代の1358年に室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ)が没して、尊氏の葬儀に際し位牌がつくられています。位牌の文字は次の通りです。「故征夷代将軍贈従一位行左大臣源朝臣長寿寺殿仁山義公霊位」とあります。また、足利尊氏の位牌に記す文案について幕府と僧侶との話し合いの記録がありますが、その記録の中に、足利尊氏以前の鎌倉幕府の執権の位牌がすでに存在したとあります。それにしても、足利尊氏さんの位牌はすごいですね。文字数も多くて長く、とても覚えきれませんね。読むだけでも大変です。ただ将軍の葬儀や位牌についての記録があるだけで、庶民についての記録は殆ど存在していないようです。庶民に仏式の葬儀や位牌が普及するのは江戸時代になってからです。

在家の葬送・位牌の基本規範

江戸時代初期・1864年に、歴代の臨済宗の学僧としても名高い「無著道忠」編により、『小叢林略清規』三巻が著され、この書がのちの禅宗清規の基本書として用いられているといわれます。同書には、修行を修めた僧侶と修業半ばで亡くなった亡僧、在家の場合の葬送について詳細に書かれ、位牌については、位牌に記す文字などが実務に即して記載されているといいます。

真言宗では、江戸時代初期に『福田殖種纂要』が編纂され、葬送儀礼や「戒名」について記されています。

この場合の規範とは、現代風にいえばマニュアルにあたりましょうか。

中国の禅宗には、在家の葬儀儀礼・位牌についての規範はありませんでしたが、日本の禅宗においては、在家の葬送儀礼や位牌についての規範がこの時代に確立されたことになります。

庶民の仏式の葬儀・位牌は江戸時代から

江戸幕府は仏教寺院・僧侶を統制するための「諸宗寺院法度(しょしゅうじいんはっと)や「寺檀制度(じだんせいど)」「寺請制度(てらうけせいど)」「宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)」などを制定して、民衆統制・宗教統制を強めています。

寺檀・寺請制度の成立により、すべての人たちが家単位で必ずどこかの檀那寺(菩提寺)に檀家として登録することになり、江戸時代の日本人はすべて仏教徒となっています。このことにより仏教の庶民化が大きく進んでいます。

庶民の菩提寺を求めたのではないでしょうか。

江戸時代初期の歴史的背景を見たとき、人口が急激に増加して17世紀初頭から18 世紀初頭までの1世紀の間に、日本の人口は1,200 万人余から3,000 万人以上へと2倍半に急増しています。

百姓・農民は小作人から独立して、商品を流通させる商人やものを作る職人さんもそれぞれの立場でスタートして、家庭を持ち、家族を養うようになると、それまで感じることのなかった責任を負い、苦労や悩み、無常観も絶えずあったと思います。士農工商の身分差別や重税も大変だったと思います。

時の流れとともに、各家庭では葬祭の必要性に迫られ、先祖供養の意識が高まったのもわかります。庶民にとって葬送、葬儀も墓地もとても大きな悩みの一つであり、自分だけではどうしても解決できません。ここに菩提寺を求めたのだと思います。    

日が暮れると、闇につつまれる当時の人々にとって、悩みや苦労に寄り添ってくれる、仏教・檀那寺(菩提寺)の存在は大きかったと思います。菩提寺は当時の人たちが求めた「ウオンツ」・「ニーズ」どうしても必要なものだったのではないでしょうか。       

このような時代背景のなかで、小規模な家族形態の家々が集合して、寄り合い的な寺院が生まれ、永続的に葬祭の関係を結び、お布施を行ってその寺院の護持にあたる檀家と檀那寺(菩提寺)の関係が成立したのだと思います。そして、このような経緯を経て仏壇と位牌が各家庭に普及したのだと考えます。

身近な人の位牌に手を合わせることは、故人と喜びや苦しみを共有してきただけに、新聞もインターネットもスマホも無く、限られた情報しか持たない当時の人々にとって、心の大きなやすらぎだったと思います。

現在の日本の寺院の9割近くが戦国時代末期から江戸時代の初期までに成立したとされているのも、このような時代の転換期に庶民の気持ちがもたらしたものではないでしょうか。

庶民の家庭に仏壇と位牌が

江戸時代に位牌を安置する仏壇についての興味深い調査結果があります。江戸時代中期の信濃国(現在の長野県)佐久郡と上田領の中下層農家の破産にともない売り出されたものの記録によれば、収納家具は貧弱で食器類なども乏しいなかで、仏壇は両家とも所有していています。佐久郡の農家では、大事なものを入れる木箱が二百文に対し仏壇は六百問文で買い手がついたそうです。また江戸本石町の裏長屋の家財没収の覚書には仏壇と神棚の記載があったそうです。” 

日本民俗学の創立者の柳田國男さんの文章に 

“日本民俗学の創立者で、文化勲章を受章している柳田國男さんが昭和6年に朝日新聞に執筆した文章の一節があります。

「師走に雨に濡れながら歩いていた老人が警察に保護された。背負っていた風呂敷包から位牌だけが何十枚もでてきたという。斯んな年寄りの旅をさまよふ者にも、尚どうしても祀らなければ祖霊があったのである。」と柳田國男さんは記しています。”                     

参考資料「菊池章太 『位牌の成立 儒教儀礼から仏教民俗へ』東洋大学出版会 2018」 

江戸の庶民にとっても、地方の農家の人にとっても、老いた人にとっても、何故お位牌とお仏壇は、大切にして身近に置きたいものなのでしょうか。どんな境遇にあっても絶やせないものだったからでしょうか。そこはかとなく大切な人とそばにいると思う、私たち日本人は、そこに心のやすらぎを感じるからでしょうか。

□お位牌とは何かを考えてきました“位牌は、儒教の儀礼からはじまり、儒教の神主が中国宋代の禅宗を通して鎌倉時代の日本で受容され、やがて江戸時代に庶民のあいだで普及したのが現在の位牌の起源と考えられるといいます。”

お位牌は、故人が生きてきた証(あかし)、亡きおじいちゃんやおばあちゃん、父や母、かけがいのない家族が一生懸命生きてきたアイデンティティの証(あかし)なのかもしれません。そして、家族の歩み、歴史を私たちに教えてくれる、大事なメモリアル・ボードなのかもしれません。

そこに霊魂が宿っているとは思わないけれど、ただそこはかとなく大切な人がそこにいる、お位牌に手を合わせればそこにいる、そう思う。どうぞ安らかに眠って下さいと手を合わせ、そして私たちをどこかで見守っていて下さいと祈る。

私たちは考えます。家族の幸せと健康を仏さまに祈り、愛した人・愛してくれた人に手を合わせる、家族の絆を紡ぎ、家族の歩み、家族の記憶と共にあり、家族のアイデンテイーの場でもある祈りの空間が、お位牌であり、お仏壇なのではないでしょうか。

「お位牌とは何かを考えてきました」が、私のこの拙い文章のなかでも多々教えて頂き、度々記させていただきました、東洋大学教授「菊池 章太」先生著『位牌の成立 儒教儀礼から仏教民俗へ』のなかの一節を紹介させていただきまして最後とさせていただきます。

“どこからか見守っていてくれる。そこはかとなくそう信じている。そしていつかは忘れ去られていく。それが私たち日本人が抱いてきた故人への思いかもしれない”

“私たちにとって亡くなった人とのかかわりはどこにあるのだろう。それは遠い肌の記憶であり、今も手でふれられる思いではないか。そうした心情が優先されてもいいと思う。“                         

〈引用・参考文献〉私の拙文「お位牌とは何でしょう」は、東洋大学教授「菊池章太(きくち のりたか)」先生の『位牌の成立 儒教儀礼から仏教民俗へ』東洋大学出版会 2018」に大変お世話になりました。有難うございました。厚く御礼申し上げます。                   

菊池先生の同書は、2,000年以上の前の中国儒教、中国仏教、日本仏教の歴史から、現在までの葬送の儀礼を中心として、位牌の成立ちを考察するという大変な知的作業、知力と果てしない読書量・根気全てが揃って可能なものと敬服するばかりです。先生の同書によりましてお位牌・葬送について大いに勉強させていただきました。何度も読ませていただきましたが、私の拙文には不確かなところもあると思います。多くの方に同書をお勧めします。どうぞご覧になって下さい。また先生の著書に「菊池章太 ちくま新書『葬儀と日本人 位牌の比較宗教史』筑摩書房 2011」もあります。こちらは新書ですので読みやすいので、よろしかったら合わせてご覧下さい。

大正大学名誉教授で法華思想研究の第一人者「多田孝正」先生の『お位牌はどこから来たのか 日本儀礼の解明』 興山舎 2015」にも大変お世話になりました。先生の現在の仏教に対する貴重なご提言は重く受け止めるべきと考えています。同書は大変読みやすく、合掌礼拝についてなど具体的に書かれていますので、ご覧いただきますよう、おすすめします。      

〈引用・参考文献〉「菊池章太『位牌の成立 儒教儀礼から仏教民俗へ』東洋大学出版会 2018」「菊池章太『葬儀と日本人 位牌の比較宗教史』筑摩書房 2011」「多田孝正『お位牌はどこから来たのか 日本儀礼の解明』 興山舎 2015」「五来 重『仏教と民俗 仏教民俗学入門』角川 2018」「司馬遼太郎『項羽と劉邦』文藝春秋 1990」「箕輪顕量 編『箕輪顕量 編辞典日本の仏教』吉川弘文館 2014」「末木文美士『日本宗教史』岩波書店 2006」「司馬遼太郎『坂の上の雲』司馬遼太郎 文藝春秋 1069」「鈴木大拙『禅と日本文化General Remarks on Japanese Art Culture』 北川桃雄訳  講談社 2017」「柳田國男 『先祖の話』石文社 2016」「WEBサイト第三特別調査室 縄田康光『歴史的に見た日本の人口と家族』国立国会図書館 デジタルコレクション立法と調査 2006.10 No.260」「WEBサイト『七人の侍の作品情報』映画.Com」「池波正太郎『鬼平犯科帳』文藝春秋1968」「仏事コーディネーター資格審査協会『仏壇仏具ガイダンス』宗教工藝社 2004」 

その他、新聞、雑誌、WEBサイト等の記事を参考にさせていただきました。 ありがとうございました。

お位牌は亡くなられた方の霊をお祀りする為に札に、ご寺院から頂いた

戒名や法名を書きや彫刻で記入したもので,江戸時代頃から

広まっていきました。

  ご葬儀の時に用いた白木のお位牌を四十九日法要までに本位牌と呼ばれる

(塗り位牌・唐木位牌)に作り替え四十九日法要を迎えます。

そこでご寺院様に(お正念入れ・魂入れ)をして頂き初めて本位牌となり

お仏壇などにお祀りし供養します。

「塗り位牌」とは黒く漆等で塗られた金箔や金紛などが施されたお位牌をさし

「唐木位牌」とは黒檀・紫檀等で作れたお位牌のことです。

本位牌には戒名、俗名(生前の名前)、没年月日、没年齢、

宗派にもよりますが梵字を戒名の上に入れる場合もあります。

最近では生前の名前を入れる「俗名位牌」を作られる方も増えてきています。

 お位牌には大きく分け板位牌と回出位牌(くりだしいはい)、があり、

台座に1枚の札があるものを札位牌、箱型になった中に白木板や、

塗板などが沢山入るものを回出位牌と呼びます。

※「繰出位牌」と書く場合もあります。

地域によって異なりますが、板位牌には

表面に戒名、没年月日を入れ裏面に生前のお名前(俗名)、没年齢を入れるか、

表面には戒名のみで裏面に没年月日、俗名、没年齢を入れる形もあります。

 回出位牌(繰出位牌)は表面(表板)に

「○○家先祖代々之霊位」、「先祖代々之霊位」、「○○家」などと入れ

二枚目以降の札板には札位牌と同じよな形で戒名、俗名など記入していきます。

(中の白木の札板にはご寺院様に書いて頂く場合が多いようです。)

お位牌のサイズ表記ですが、商品名の後に4寸とか40などと数値が

入っていますがこれはお位牌の札板(戒名を入れる場所)のサイズ(長さ)

を表しています。仏具業界では総丈ではなく札板のサイズを用います。

1寸が約3cmですので4寸は札板サイズ約12cmを表します。

お位牌を作るにあたっての確認点、注意点

白木のお位牌から本位牌(塗位牌・唐木位牌)に作り替えるのは

ご寺院様ではなく、仏具屋さんや葬儀屋さん等で作ってもらいます。

その後四十九日法要等でご寺院様に魂を入れて頂きます。

 そこでお位牌を作っていた頂く上での注意点を挙げてみたいと

思います。

一番は文字を間違えてはいけませんので、ご寺院様が書かれた戒名紙を

参考に持参頂くかコピーをお持ち頂ければ安心です。戒名にはよく旧字体や、

辞書にも載っていないような文字が含まれている場合がありますので

不明な点等、事前にご寺院様に確認しておかれるとよいでしょう。

その他

没年月日(命日)を表面に入れるか裏面に入れるか

地域やご寺院様によって違いがあります。

(関東や東北地方などは表面、関西など西日本方面では裏面に入れる場合が

多いようです)

亡くなられた年齢の上に入れる「行年(ぎょうねん)・享年(きょうねん)

また「才・歳」のどちらか

戒名の上に梵字を入れるか

ご宗派やご寺院によって入れる場合があります。

表面・裏面の文字の色は何色にするか

表面は金色が一般的ですが、裏面は金色にしたり彫刻したそのままの

素彫りであったりします。

戒名の下に「位・霊位」という文字を入れるか

※霊位の場合、靈などがあるのでご確認下さい

位牌の文字入れを「彫刻」にするか「書き」にするか

(※機械で仕上げるものと職人による手彫り、手書きがあります。)

店舗によって手書き、手彫りに対応していないところもあります。